【調香師の手帖⑦】ローズなんて、まだ安い方だ。

香水店をやっていると、ときどき驚かれる。
「ローズって高いんですよね?」
たしかに高い。
数トンの花びらから、ほんのわずかしか採れない。天然ローズは香料界のスターだ。
だが、調香師の世界には、そのローズを見ながら、
「いや、まだ安い方ですよ」
と平然と言う人種がいる。
今日はそんな、少し頭のおかしい世界の話をしたい。
香料の価格は、時として酒や宝石の世界に近づく。
そして、その理由は決して「いい香りだから」ではない。
採れないからだ。
オリスバター ― 香料の王様
Orris Butter
アイリスの花ではない。
根である。
しかも掘り起こしたら終わりではない。
数年にわたって熟成させる。
ワインでもなければウイスキーでもないのに、である。
そして熟成した根から抽出されるオリスバターは驚くほど少ない。
香りは、花というより高級な化粧品のようだ。
パウダリーで、柔らかく、どこか冷たい。
派手さはない。
だが一流の香水に入ると、不思議な品格を与える。
調香師が「オリスが入っている」と聞くだけで少し背筋を伸ばすのは、その値段だけが理由ではない。
ウード ― 病気が生んだ奇跡
Oud
ウードは沈香(じんこう)とも呼ばれる。
さらに最高級品は伽羅(きゃら)と呼ばれ、日本では古くから珍重されてきた。
ここで面白いのは、
ウードは健康な木からは採れない。
樹木が傷つき、菌に感染し、自らを守ろうとして樹脂を作る。
つまり病気の産物だ。
病気になった木だけが、あの深く神秘的な香りを生み出す。
自然は時々、人間の価値観をあざ笑う。
健康な木より、病気の木の方が高く売れるのである。
最高級の天然ウードは、もはや香料というより工芸品や骨董品に近い。
アンバーグリス ― クジラが海に残した贈り物
Ambergris
アンバーグリスは長い間、その正体が分からなかった。
海岸に流れ着く灰色の塊。
燃やすと甘く香る。
王侯貴族は珍重したが、誰もどこから来るのか知らなかった。
後になって分かった。
マッコウクジラの体内で生まれる物質である。
しばしば「胆石」と説明されることもあるが、実際には消化器系で形成される特殊な塊だ。
さらに面白いのは、
海に出てからが本番である。
何年も、何十年も海を漂う。
太陽にさらされ、塩にもまれ、少しずつ香りが変化する。
海が熟成させる香料なのだ。
現在では法律上の問題もあり、自由に利用できる国は限られている。
そのため実際の香水では合成代替品が使われることがほとんどだ。
それでもアンバーグリスが伝説扱いされるのは、
香りそのものより、
物語が強すぎるからかもしれない。
Whisky CO₂ ― 飲まないウイスキー

Whisky CO2 Extract
香料の価格表を見ていて、
思わず二度見したことがある。
「これ、本当に合ってる?」
という値段だった。
Whisky CO₂は、その名の通りウイスキーから超臨界CO₂抽出によって得られる香料である。
ウイスキー好きが期待するようなアルコール臭はない。
あるのは、
樽。
モルト。
バニラ。
ドライフルーツ。
熟成。
つまり、私たちがウイスキーをウイスキーだと感じる本質だけが凝縮されている。
香りを嗅ぐと、
飲みたいというより、
古い蒸留所に行きたくなる。
香料とは、ときどきこういう芸当をやってのける。
オスマンサスAbs. ― 金木犀は花の香だけではない
Osmanthus Absolute
金木犀の季節になると、
街全体が同じ香りになる。
あれだけ強く香るのだから、抽出も簡単そうに思える。
ところが現実はそうではない。
採れる量は驚くほど少ない。
そして高価だ。
香りはさらに面白い。
花の甘さだけではない。
アプリコット。
紅茶。
レザー。
どこか革製品を思わせる影がある。
可憐なオレンジ色の花から、なぜそんな香りが生まれるのか。
自然は説明を拒否する。
だから調香師はオスマンサスに惹かれる。
理解できないものほど、美しいからだ。
高価な香料は、必ずしも偉くない
ここまで読んでいただいた方は、
「高い香料ほど良い香りなのか」
と思うかもしれない。
実はそうでもない。
数百万円/kgの原料が0.1%しか入らないこともあれば、
何十分の一のいい香料が作品の主役になることもある。
高価な香料が表しているのは、香りの優劣ではなく希少性だ。
料理でいえば、トリュフだけでフルコースは成立しない。
香水も同じである。
調香師が本当に評価するのは、
高い原料ではなく、
その原料をどう使ったかだ。
幸運なことに、私は今回紹介した5つをすべて所有している。
不幸なことに、買ったのも全部私である。
香料というものは不思議で、高価なものを買うたびに財布は軽くなるのだが、なぜか心は豊かになる。
冷静に考えれば、花や木や樹脂や、時にはクジラが残した物質に、そんな大金を払う理由などない。
それでも人類は、ずいぶん昔からそういう理屈の合わないものにお金を払ってきた。
香りとは、そういうものなのである。